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【善光寺は、なぜひとを惹き付けるのか?】


北海道に生きていると、いろいろ遠い地域について
それがなぜであるのか、よくわからないことが多いものです。
この信州長野で、どうして善光寺という存在が人を惹き付けてきたのか、
よく理解出来ない部分があるのであります。
そうであるのに、長野駅を下りればすぐに正面玄関が
善光寺を想起させるデコレーションに彩られているし、
実際に善光寺を訪れてみても、巨大なひとの蝟集ぶりはわかるけれど、
ではそのコアになるものはなんであるか、
各堂塔を巡ってもさっぱり実相は見えてこない。
ただただ、たくさんのひとが善光寺参りよろしく、キャーキャー言っている。
境内の中ですら「恋愛おみくじ」みたいなものまで販売していて、
宗教であることすら不用なのではないかと、その存在が思われる。
善光寺というもの自体が、東京ディズニーランドのような
アミューズメントを目指していたのかも知れないとも思えます。

ソウルフードである「おやき」については、これはもう脱帽でして
来る日も来る日も、いくらでも食べていたくなる(笑)のですが、
善光寺というのはよくわからない筆頭です。
今回は信州大学の先生たちと同道させていただいたので、
善光寺ってどうしてひとを集めているのでしょうか?と、質問しましたが、
明瞭な回答にはどうも巡り会えなかった(泣)。
ただ、同じ信州の諏訪大明神絵詞に古い北海道島の記録が残っているという
故事から考え、そしてこの信州の日本列島内での位置を考えてみて、
どうも、この信州というのは東西南北の交通の要衝ということではないかと、
そんな思いが強くなってきています。
古代以来、地方の宗教施設というのは中央の権力との関係よりも
自立的な存続を図ってきたと思います。
なにより僧侶は知識人であり、交易における通訳のような役割を担い、
商業にとって、相当に有力な存在でもあった。
そういえば、「坊主丸儲け」というような陰口もよく聞く(笑)。

まぁ、ほとんどはじめての訪問でしたので、
今後、いろいろに理解を深めていきたいものだと思わされた次第です。

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