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【江戸期絵図面に見るナマナマしい地方「政経」構造】



写真はわが家の先祖伝承を探訪してきて
先般見学して来た姫路市林田の「三木家住宅」復元主屋の様子です。
この林田という地域は江戸期には1万石といういちばん小規模の「大名領地」。
1万石というのは、米の生産高が1万人の1年分に相当するという意味。
この計算式はなかなか秀逸なようで、江戸期末期の全国の石高は3.000万石と言われ、
また人口も3,000万人と相似していたとされる。
で、大名さんは「建部」さんということだそうですが、
この下の絵図面では「武部」という名前で記載されています。
「武部内匠頭」1万石というように記載がある。
絵図制作に当たっての「校正」が十分ではなかった(笑)のか、
そもそも漢字の表記にはおおらかであったのか、その両方でしょうか。
で、わが家の家系に連なるこちらの「三木」さんは、
絵図上では「構」と表記され「三木三郎左衛門」の屋敷が図右上にある。
ちなみにこの三木家住宅は復元され、配置図平面図は以下の通り。

塀がまわされた中庭空間の様子は、絵図の三木家図でもわかる。
さらに「御下高一万石百姓也」と記載されていて「大庄屋」の機能がわかる。
図には「御成門」も描かれている。
ということで、政治というか、軍事警察機構当主である建部(武部)さんと
経済を司っている「三木家」さん両方で「一万石」という表記・記載が重なっている。
江戸時代のニッポンの1/3000のミニチュア模型のような
典型的な地域支配の構造がピンナップされているのですね。
まことにわかりやすい。
まぁ実際に1万人程度がこの領国地域に居住存在していたかどうかは
そこまではわかりませんが、江戸時代このような構造によって
社会は営まれてきたことが明瞭に伝わってきます。
大体、絵図にこうした経済支配の差配人の家屋敷が明示されるのですから、
支配構造のどうであるかは、明らかではありますね。

歴史理解って、ある定点的な了解点から広がっていくのだと思います。
こういう「座標軸」が明確になり、そして復元された三木家住宅がある。
それらを大きな手掛かりにして、いろいろな人間活動が「取材」で明らかになる。
わたしの場合、たまたま遠い縁戚のような気分も感じられて、
この播州姫路の地が一気に超身近なものに感じられるようになってきました。
この「歴史のモノサシ」を使って、もっと生々しく学んでいきたいと思っている。
まことに老後の研究テーマには事欠かない次第であります(笑)。
ただしそのような境遇にまで至れるのかどうか、
日々地道に経済活動に精を出して、将来は坂の上の雲を追っていきたいです。

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