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【日々参詣八百万神 in 東京・太田姫稲荷神社】



さてあれこれの要件があって東京出張。
朝1番に家を出て、早朝便でのフライトです。
そうすると、毎朝の散歩のはじめにお詣りする北海道神宮に行けない。
なんとなく心のこりという次第なんですが、
そういう気持ちを推し量ったように、半蔵門周辺を歩いていて
写真のようなかわいいお社を発見いたしました。
これ幸いと、参詣させていただき、こころの平安をいただくことができた。
でも、どういう神さまなのか、さっぱりわからない。
で、最近の情報利器、インターネットで検索したら、
以下のような記述にで出会った。by Wikipediaであります。

太田姫稲荷神社
所在地 東京都千代田区神田駿河台1-2
主祭神 倉稲魂神、菅原道真、徳川家康
創建 長禄元年(1457年)
太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ)は、東京都千代田区にある神社。
社伝によると、室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って
生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁に
まつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に
娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、
長禄元年(1457年)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を
築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた。
徳川家康の江戸入府後、慶長11年(1606年)に江戸城の改築により、城外鬼門に
あたる神田川のほとり(南側・右岸)(現在の東京都千代田区神田駿河台四丁目、
後に架けられた聖橋南詰の東側)に遷座した。
1872年村社に定められ、名も太田姫稲荷神社と改めた。
1923年の関東大震災では社殿が焼失、湯島天神に避難したが、1928年に再建された。
1931年に御茶ノ水駅の総武線拡張により、現在地に遷座した。淡路坂上の旧社所在地で
御茶ノ水駅臨時改札口脇に残された椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られている。

ということなのですが、こちらは本社のことで、
わたしが参詣したのはどうやら出張所のようなお社のようです。
のぼり旗の林立がなければ、お社だけではほとんど気付くことはなさそう。
お稲荷さんらしい赤いのぼり旗の列が、いかにもという感じがして、
なんともかわいらしい。
ニッポン社会はこういういかにも八百万感が随所に満ちていて油断できない(笑)。
そしてこういった何気ない神社にも、500-600年の年季がある。
縁起にも親子の情愛が籠もっていて、なんとも人間味がある。
ありがたく合掌であります。

【伝統芸能に残る日本人的「体動作」への郷愁】



上の写真は合成であります。
先日、小樽市内にある「小樽市公会堂」を見学して来たのですが、
その折りに離れのような位置に移築された個人所有だった能舞台があったのです。
北海道は日本人文化の歴史が浅く、このような伝統芸能への興味は
ほかの地域と比較して格段に少ない地域なのだろうと思います。
北海道、能舞台というように検索しても、この小樽市公会堂のことくらいしか出てこない。
「歴史的能舞台」としては北海道唯一というように記載されているから、
能という日本的伝統芸能への北海道人の興味の幅というものが知れる。
現状でも能の公演というのはごく稀だということです。
数年に一回あれば、ということのようですね。
写真は、自分で撮影したいまのこの能舞台の様子に、
かつて所有者だった岡崎さんという小樽の商家の方が、
能舞台建築当時に行った能の公演の様子の写真をサイズを調整して、
イタズラ的に嵌め込んでみた合成写真なのです(笑)。雰囲気を感じてください。
現状のこの能舞台は、右側に工事用のシートが張られているのがご愛敬です。
岡崎さんという方は、まことに好事家だったようで、
本格的に衣装も整えられての能興業だった様子が偲ばれます。
すごい巨費を投じた「数寄」であったことは間違いありませんね。
今に至るも、北海道ではほかに能舞台が存在しなかったというのですから、
こういった孤高でのありようは、一種奇観だと思わされる次第。
参考までに元写真は以下の2枚です。




わたしは岡崎さんのように自分で興行したいとか、演じてみたいとかには、
興味もその資金もまったくありませんが(笑)、ただ、歴史に興味を持ってくると
日本人の体技を活かした芸能というものに興味が深くなってくる。
古くは雅楽とか神前での舞、神前神楽などが芸能の源流なのでしょう。
天皇の前で貴族の娘たちが着飾って踊る宮廷行事があったとされ、
で、その場で天皇の恋が芽生えたというような故事もあったようです。
そういう非日常性世界、いわば「劇的なるもの」への偏愛は自然に存在する。
そこから里神楽というように進展していって、徐々に民衆の娯楽の一種として
日本に「芸能」という文化が根付いていったのでしょう。
戦国期の出雲の阿国のようなのは、やはり体技が基本での視覚娯楽だったのでしょう。
伝統芸能を見ていると、いかにも日本人的な体動作のカリカチュアを見ることがあり、
そういう体動作が、忘れられずに伝統芸能には残されていると、
そんな気付きに至ることがまことに多い。
日本人は身体的に感情を表出することに、非常に感受性の高い民族ではないかと、
そんなふうに思えてきてならないのです。



そんなことを考えていて、能の世界でも
写真のような現代化に取り組んでいる動きがあるようです。
野村萬斎さんが踊る体動作をCGアートとして視角化させて舞台背景として
その動作からのイマジネーションの広がりを映像化した。
それを背景として野村萬斎さんが踊った様子が放送されていた。
ことしの正月に東京で公演が行われ、その記録のテレビ番組をBSで見た次第。
伝統は常に革新されていくことで継続していくのでしょう。
日本人独特の体動作への興味、意識させられるなぁと思わされますね。







【ニセコ屏風絵続報。蝦夷地・義経≦琉球・為朝?】




さて先日、7月20日にニセコの旅館・ZABORINで見た屏風絵について
みなさんからのご意見を求めたところ、札幌在住の御園生 眞さんから、
きわめて論理的な推論をいただきましたので、ご紹介させていただきます。以下要旨。
〜先日の屏風絵について小生の解釈を述べさせていただきます。結論としては、
蝦夷地の絵ではなく琉球であると思われます。蝦夷地と解する根拠は、
おそらく右側の二人の人物がアイヌの人と推定されることにあると思われます。
しかし、半裸のアイヌ人の絵は見たことがありません。札幌の古書店弘南堂の
古書目録などで見るアイヌの絵は、ほとんどアイヌ民族特有紋様の衣服を着ている。
半裸状態で描かれているのは、温かい地域の住民だからと思われます。
他方、騎馬武者は鎮西八郎と称した源為朝と思われます。
為朝は保元の乱で平清盛に敗れ伊豆大島に流されその後自刃したとされます。
しかし、源義経の伝説に似た「為朝伝説」があり、その「為朝伝説」では、
為朝は伊豆大島から琉球に渡り、琉球王朝の祖になったということです。
屏風絵は、以上の事から琉球の風景と解釈できるように思われます。〜

源為朝とは、Wikipediaの記述要旨は以下の通り。
〜源為朝は、平安時代末期の武将。源為義の八男。頼朝、義経兄弟の叔父。
身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。
生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集め暴れ、
一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、
強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。
しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配、追討を受け自害した。〜
●さらに「為朝伝説」として以下の件が有名。
〜琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』『鎮西琉球記』『椿説弓張月』などで、
源為朝が琉球へ逃れその子が初代琉球王・舜天になったとしている。
来琉の真偽は不明だが正史として扱われ、この話が曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。
日琉同祖論と関連づけられ、この伝承に基づき1922年には為朝上陸の碑が建てられた。〜

・・・っていうような展開を見せてきている。
で、この屏風絵は「銀屏風」という画面形式になっている。
これは江戸期の江戸琳派、酒井抱一などの一流がよく制作したとされるスタイル。
江戸期に財をなした商家などが、琳派の絵師に依頼して
銀屏風を描いてもらった。画題についてヒアリングがあって、
「わたしは為朝伝説が興味深いと思っている。ひとつそれを・・・」という推測。
いや想像をたくましくすると、この商家というのは江戸期に盛んだった琉球ものの
商売で儲かった商家で、もっと琉球に取り入りたいという下心から、
江戸の絵師たちに、こういった画題を描かせて貢ぎものとした可能性もある。
色彩の濃厚な感じはたしかに南国的だとも思われます。
また武家の錦絵のようなカラフルないでたちも、平安末期らしさを感じる。
そういった想像だとすると、制作年代はおおむね200-300年前の頃で、
画題テーマは、平安末期の源平争乱期というように想定されることになります。
う〜〜む、なかなかに合理的な推論で、ほぼ同意できますね。
さて今後、もうすこし探求を進めてみたいと思っています。








【アングロサクソン的「わびさび」古民家FUJION空間】




昨日外観を紹介した北海道ニセコでの栃木県から移築再生日本古民家です。
入って見ると、一部ロフト的「茶室」もありますが1階レベルは移築古民家フロア。
しかし傾斜を見せる敷地なりに、その地下部分がコンクリートで作られている。
上の写真2枚は、その地下部分の様子です。
敷地は窓側が傾斜地になっていて、鋭く崖地で眼下には渓流が流れている。
内部に入ってこの開口部に至るまでこういう周辺環境立地に気付かされなかった。
そういう地形メリットをここで一気に見せるという演出効果はなかなか。
ご馳走は、出すタイミングこそが重要だと言わんばかり(笑)。
こういったロケーションに移設させたセンスも十分に感じさせられます。
考え方としてはこのフラットな床壁天井のRCボックスの上に
古民家の木造架構が乗っかっているイメージです。
開口はその渓流側にだけ1方向に開けられている。
3方向を閉じた構造的にも安定する建築で、
渓流が生み出す四季折々の色彩世界だけに心象が向かうようにデザインしている。
いや逆に、閉じた空間3方向の陰影世界が強調されていると言うべきかも。
1枚目の写真の壁面にはまるで墨絵のような壁面画がありますが、
これは施主、ShouyaP.T.Grigg氏による「墨絵的モノクロ写真」です。
2枚目の写真壁面にも正面にそうした墨絵的表現が飾られている。
かれは、究極的な表現としてモノクロ写真に魅せられているそうです。
侘びサビ、ですが、イギリス人は青い目ながら直感的把握力がある。





かれ、ShouyaP.T.Grigg氏にはじめて出会ったとき、
かれがDIY的に建てた札幌市西区小別沢の家を見たけれど、
最初からこういった空間への志向性をもったアーティストだと感じていた。
住宅雑誌に対してそのような自己であるというプレゼンテーションをしてくれた。
自己紹介がてら、自宅に来て欲しいということだった。
そういうプレゼンテーションをするのも、ビジネスセンスがあるなと感じた次第。
日本の「オールド」に対しての芸術インスピレーション的リスペクトを持っていた。
聞いたらカメラマンとしての仕事をしたいということだったので、
その場を提供させてもらったというのが、出会いの経緯だった。
雑誌編集者とカメラ表現者という関係が続いたわけだけれど、
ときどきオーストラリアにも帰ることがあり、
彼の地の住宅写真を雑誌に掲載したりもした。
その後、オーストラリア人たちがニセコのパウダースノーを再発見し、
彼の地の資本などによるニセコ地域への投資が盛んになって、
かれは、自らの「表現」の場を大きく拡大させてきた。
ひさしぶりに先日、当社事務所を訪れてくれて、この古民家のことを熱く語っていた。
そんなことから、今回の見学ツアーが実現したのですね。
日本の古民家とかれの表現者的インスピレーションが、
みごとなコラボレーションを魅せていると感じられました。
それにしても、この栃木県にあったという古民家のスケールはすごい。
木造の架構の荒々しい柱梁の力強さには、民族を超えたメッセージ力がある。
こういう日本建築の良さをまっすぐに受け入れてくれるかれの感受性に
たいへんうれしく楽しい気持ちを持っておりました。
建築的にはこういう古民家は採光が最大の問題ですが、
回廊的な渓流側外周を水平的な開口部として開放し、きのう触れたように
軒下外周に「水盤」を装置させての「反射光」の工夫もされていた。
また屋根頂部からの「ほのかな」採光も魅力的でした。
なお、メインテーブルの面材に採用した樹種はたぶん針葉樹素材だと思うのですが、
その使い方の意外さにやや驚かされもしました。
けっこうフラットではなく、木目に沿って凹凸感があったりする。
なんとまぁ大胆な、と思わされた次第です。さすがアングロサクソンですね(笑)。







【イギリス人的Japan古民家再生-外観篇】




きのうからの続篇です。というか、ちょっとニセコ地区の住宅状況を
数日間、シリーズにしてお伝えしようかと思っている次第。

この建物は、きのうもご紹介した英国人Shouya P.T.Grigg氏による
日本の栃木県から移築させた古民家の再生利用レストランです。
ずっと日本の古民家を探してきていたという。
北海道内ではなかなかないので、はるばる栃木まで出向き、豪壮な
柱梁の力感あふれる古民家を購入してニセコに移築再生させた。
かれらには、古美というものへのリスペクト文化が濃厚にある。
たぶん、そういったオールドへの偏愛の方が強くて、
日本文化にある白木の伊勢神宮式年遷宮のような簡素さへの志向は
あんまり強くないように思われます。
で、そういうアングロサクソンの嗜好性から日本の古民家への
思い入れというのも、理解出来ると思っていました。
ただし以前見た、同じアングロサクソンのドイツ人の建築デザイナー、
カール・ベンクスさんが新潟で行っている
日本の古民家のドイツ風改装については、あまり同意しにくかった。
かれの場合には、断熱などの性能向上には興味がないようで
日本の古民家を素材材料として、その古さを故郷であるドイツ風に
デザインアレンジして見ました、という異国情緒の域を出ないように思われた。
それに対して英国人・Shouya P.T Grigg氏は屋根の萱葺きはすっぱり諦めるなど
単純な表面的アレンジではなく本格的な再生利用を志向している。
「このニセコの豪雪地帯では茅葺き屋根はムリ」という合理的判断。
そういう雪対応など建物としての性能への気配りは明確に感じる。
インシュレーション(断熱)工事について詳細は確認していませんが、
外壁はいったん本来の土壁を落としての左官仕上げ。
外壁真壁の柱間に面材として構造用合板が施工されていた。
さらに内側はプラスターボード張り+漆喰仕上げになっているので、
その両方にサンドイッチされて断熱層の確保はされているようでした。
ちょうど洋風真壁構造ともいえるポスト&ビームスタイルの断熱手法か?
また内部床面は土間仕上げされ、温水循環床暖房がパイピングされている。
そういった居住環境性能志向は持っているようでした。
一方、デザイン面ではエントランスに赤サビた厚板鉄板の囲い。
さらに、同素材で床レベルの外周部に水盤が装置されている。
この水盤という発想はあまり北海道ではみられないものだと思います。
冬場にも軒の出でこのまま水が張っているか微妙ですが、
夏場にはこのように水がたたえられていて、室内に反射光を差し込ませる。
古民家の「暗さ」への合理的な対応策とも考えられる装置。

周囲はロックガーデンとして仕上げられる予定。
日本の古民家がロックガーデンの中に浮かんでいるような外観は
あんまり日本人には思い浮かばない発想かも知れませんね。
インスピレーションは、きっと京都龍安寺などの「石庭」があるようだと推測。
屋根やエントランス、水盤外周装置など、
建物本体の素材の古美とモダン&シャープを対置させている。
しかし色合いや素材感で、古民家の素材感とも似合っている。
あしたはこの建物の内観をご紹介したいと思います。






【イギリスDIY精神のDNA in 北海道ニセコ】





先日の当社スタッフのニセコ建築群見学のなかから。
Shouya P.T Griggさんによるリノベーション店舗の様子です。
かれは20年前くらいから数年、当社のReplan誌でカメラマンをしてもらった。
父親・母親は、イギリス人で何度も家を住み替えながら、
それに手を加えては購入時よりは高く売って、
いわば住宅をリノベーションして「わらしべ長者」のように過ごしてきた、
という話を聞いたことがあります。
で、イギリスからオーストラリア・パースに移住して
Shouyaは12才くらいまでイギリス、24才まではオーストラリアで育った。
家族がそんなふうに家に手を加え続けてきたことを見て育った。
たぶん、思春期のかれもそれを手伝っていた、自分でも手を掛けてきていた。
よく欧米人、とくにアングロサクソンの人間は家に手を掛ける、
DIYの伝統を持っていると言われますが、
今回、そんな実例を見させてもらいました。
写真3枚目のように、この店舗は倶知安市内のスポーツ用品店の
倉庫として使われていた建物のリノベーションです。
構造は鉄骨造で2階建ての大きな建物。これに手を加えて
いまは飲食店として再生利用している。
1枚目の写真は今回2階の床を一部撤去して、吹き抜けを造作し、
その2階から階段コーナーを「見せ場」にした変更をみたところ。
とくに階段は既存のものに上り初めの数段を角度を振って、
さらにカーペット状の敷物が踏み段に敷かれていたのを剥がした。
剥がしたところ、その剥がした表情がそのままでインテリアとしていいと感じて、
そのインスピレーションから、階段上り手左側の壁面も壁紙を剥がした。
そうしたら、やや経年変化した素材の古美の表情も「味があった」。
そこからインテリア全体を、そのイメージを膨らませていって再構築した。
要するに古びた階段の造作変更から全体の店舗イメージを想像し、
鉄骨のフレームに黒くペイントさせたりして、全体の基調となる空間を作った。
そこに無垢の厚板、十数センチの厚みのあるメインカウンターテーブルを据え付けて
重厚感のあるメインディスプレイとした。
そういうなかにワインセラーをガラスで造作して吹き抜け空間に据えた。
空間への好みはむしろ日本人の禅的な志向性も感じられる。
そういえばイギリス人と日本人って、やや暗め(笑)という共通性はある気がする。

インテリアへの日本人の無関心さを、
「立派な料理を作っているのに、ワインがない」みたいなものではと、かれは言う。
たいへんいい指摘だなぁと心に留めさせられた次第です。




【女から母へ、オシドリ生態の野次馬観察】






わたし最近、ある異性個体に強い興味を持っております。
どうも、彼女の放つ魅力のトリコになっているのですよ。
・・・っていうような心境であります。
あ、彼女は人間ではありませんので誤解のないように(笑)。
写真のオシドリ個体でして、ことし繁殖期にたまたま遭遇したとき、
彼女はことしのペアである3枚目写真の右側のオスと結ばれたようなのであります。
これはふたりのデートをたまたま見留めたときのもの。
で、その後彼女は6羽のヒナの母親になっていて、子育てしていた。
その順調な様子もなんども確認していたのですが、
どうやら、その同じ個体とおぼしきオシドリが、
また3羽のヒナを引き連れているように思われたのです。
きのう朝の散歩路で、2枚目写真のこういった状況に遭遇した。
こんなことがあるのかどうか、オシドリたちの生態に詳しくはないので、
どうもよくわからないのですが、個体としては見覚えがあるように思われる。

インターネットで検索したら以下のようなオシドリの生態が記載されていた。
〜繁殖期は4-7月。一夫一妻。つがいで分散するがコロニーにはならない。 
抱卵期につがいを解消する。巣づくり:♀のみで巣をつくる。巣は大木洞穴内や、
地上の窪みにつくる。巣場所の選定は♀が行い巣づくりの間♂は縄張りの見張り役。
♀が巣に♂の胸・腹の綿毛を敷いて産座をつくる。
産卵:1巣卵数、7-12個。
抱卵:♀のみで28-30日間抱卵する。雛は早成性の離巣性。
育雛:母親のみで行う。雛は母親に促されて樹の洞穴から飛び下り、
かなり(2kmの記録)歩いて水に入る。雛は40-45日で親元を離れ独立する。〜
っていうことなのですが、続いてこんな記述に遭遇した。
〜<抱卵期につがいを解消した♂は、第2の♀に求愛することもある。>〜
おお、であります。
この記述のような経緯があって、彼女はことし2度目の出産、子育てに
邁進しているということなのでしょうか?
そういえば、この札幌円山公園のコロニーは非常に小さいコロニー。
こういうケースもあり得るのかも知れないと推測が湧いてくる。

最近、人間世界では船越英一郎と松居一代さん「オシドリ夫婦」の
危険なバトルが大混乱を呈しているようで話題ですが、
ホンモノのオシドリの世界でも、こういった話題には事欠かないのか?
なんとも可笑しい謎解きに、野次馬根性を募らせている次第です(笑)。
おっと、ちょっと話題が飛びすぎかも。明日以降、マジメに住宅ネタに戻ります。





【札幌円山自然林・オオウバユリ満開宣言】



毎朝の散歩路で見続けているオオウバユリ。
わたしのボケで、季節の記憶がいい加減だったので、
ことしはなかなか見当たらないと書いたりしていましたが、
まったくの杞憂で、いまや札幌円山自然林の里山的な森の中で、
無数に咲き乱れ、まさに群舞のような姿を見せてくれている。
この花は、ご覧のような面白い咲き方を見せてくれます。
すっくと高く立ち上がって、その先端部でいろいろな方向に花を伸ばしていく。
その先でユリらしい花弁がおちょぼ口のように開くのです。
この花はその球根部に養分が蓄えられて、食用に供される。
北海道での先住のアイヌの人たちにはきわめて貴重なデンプン質を提供する植物。
かれらの命を支えてきたソウルフードと言ってもいい。
以下、Wikkipediaの記述から要旨。

〜トゥレプの名で食用にされ、アイヌ民族が用いる植物質の食品の中では
穀物以上に重要な位置を占めていた。
旧暦4月をアイヌ語で「モキウタ」(すこしばかりウバユリを掘る月)、
5月を「シキウタ」(本格的にウバユリを掘る月)と呼び、この時期に女性達は
サラニプ(編み袋)と掘り棒を手に山野を廻り、オオウバユリの球根を集める。
集まった球根から、以下の方法で澱粉を採集する。
1 球根から茎と髭根を切り落とした後、鱗片を一枚一枚はがし、きれいに水洗いする。
2 鱗片を大きな桶に入れ、斧の刃の峰を杵がわりにして粘りが出るまで搗き潰す。
その後で桶に水を大量に注ぎ、2日ほど放置する。
3 数日経てば桶の水面には細かい繊維や皮のクズが浮き、底に澱粉が沈殿する。
繊維クズは「オントゥレプ」を作るために取り分ける。桶の底に溜まった澱粉のうち、
半液体状の「二番粉」と粉状の「一番粉」を分離する。
これら2種類の澱粉は乾燥して保存するが、その前に水溶きした一番粉を
イタドリやヨブスマソウなど、空洞になっている草の茎のなかに流し込み、
灰の中で蒸し焼きにしてくずきり状にして食べたり、二番粉を団子に丸めて
蕗やホオノキの葉で包んで灰の中で焼き、筋子や獣脂を添えて食べたりする。
乾燥して保存された澱粉のうち、日常使用されるのは二番粉である。
団子に加工しサヨ(粥)に入れる。一番粉は贈答用や薬用で普段は口にできない。
一番粉を水に溶いたものは下痢止めの薬として飲まれていた。
なお一連の澱粉採集作業の間、「酒」と「色事」に関する会話はタブー。
澱粉が落ち着かなくなり、うまく沈殿しなくなるという。〜

季節の呼称にまでこの植物が関わっている、ということなどを知って
この花に特別の思い入れを持っている次第なのです。
札幌の円山公園自然林は、札幌都市計画のごく初期から
自然保護林として指定されてきた経緯があって、
原札幌の植生がほぼそのままで維持され続けてきたのでしょう。
ただ、市内中心部の「北大植物園」内ではあまり見掛けない。
「やや湿り気のある林内、林縁に自生する」という条件がこの地域で
格好に満たされていると言うことなのでしょう。
このような自然保護を継続させてきた昔人に深く感謝の思いを持ちます。

と書いて、さきほど本日散歩してきたら、


というような状況で、一斉に花弁が落ちていました。
6割ほどはこういった様子になっていて、
まことに「花の命は短くて・・・」を実感させてくれますね。
かれらオオウバユリにして見れば、これから種子を結実させるのであって、
ここからが種の存続にとっていちばんの頑張りどころなのでしょうが、
見ている側、人間は勝手に花の美だけを求める。
まことに因果な存在ですね、人間という種は・・・。



【チョー面白屏風絵発見 in ニセコリゾートZABORIN】




きのうは社員研修を兼ねて、ニセコ地区での活況な建築群探訪。
知人で以前、Replan誌で写真撮影の仕事を依頼していたイギリス人がいて
そのかれが、この地域で飲食店や高級リゾートホテルZABORINを経営している。
イギリスからオーストラリアに家族で移住した後、
かれは単身で日本にやってきて北海道で日本人女性と結婚して住み着いた。
・・・っていうようなことについては、また機会があれば。

で、そのかれのやっているホテルZABORINのフロント正面に写真のような
屏風絵を発見したのです。
たくさんの建物を探訪する過程での1物件で、
総勢20人弱の当社スタッフと同行だったので、詳細までは聞けなかった。
入手したのは古美術品商からということ。
断片的情報としてはこの絵の他に同じ6双の対の屏風絵の片方があること。
そっちの方には、画家のサインがあるようだということ。
それは倉庫にしまっているということでしたが、
どうも受け答えの感じではかれ自身は強い興味を持って関与していないようです。
なのでそれ以上は突っ込みようもなかったというところ。
でも、どう見てもこの屏風絵は面白い。
わたしは屏風絵についての深い知識があるわけではありませんが、
それにしても制作年代はやはり相当さかのぼるように思われる。
タッチは古来の大和絵の伝統的スタイルと思われるし、
なんといっても色彩の感覚がなかなかに素晴らしい。
きっと欧米人のかれには、美観的にハマったものかも知れません。
画題としては、蝦夷地へ戦争に負けた武家の一団<奥州藤原氏or義経?>
が落ち延びてきて海岸地帯で現地のアイヌ民族と遭遇した一場面。
こういった画題を屏風絵に描かせた人物がいたわけですが、
制作年代、その人物像、またその製作依頼意図、「取材」の状況など、
深々と興味を刺激されて止まなかった。
こういう画題はやはり蝦夷地についての興味を持った人物の想像だろうし、
まさか、この絵に描かれた武家に連なる人物が描かせたということはないだろうと
思いますが、万が一そうだとしたら、そのことについても想像が膨らむ。



屏風絵というのは制作にそれなりに費用が掛かり、
取材にしても、それなりのスケッチなどが必要だっただろうと思います。
さらに屏風絵の依頼者からの「画題の指示」があったでしょうから、
そのような画題を選んだ意図について、まことに興味が尽きない。
見る限りでは、平安末期〜鎌倉初期の日本国内戦争での敗者、
たとえば奥州藤原氏などが北海道に落ち延びてきて、
現地のアイヌの人々に対して道を尋ねているシーンと思われる。
他のスペースについて説明に忙しいので、支配人さんにこのようなことについて
質問していましたが、どうも残念ながら詳細知識はないようでした。
「この絵について詳細まで聞かれたことは初めてでした」ということで、
あまりみなさん興味を持っていないようですね(泣)。
まぁなんでも鑑定団の曜変天目のこともあるので、真贋がどうこうとまでは
不明ですが、贋作としてもその意図・背景が面白い。
どなたか、こうした画題の屏風絵について、知識をお持ちの方に
コメントをいただければと思います。







【欧米から日本へ「建築家」概念の受容と変容】




東大建築学専攻による「もがく建築家 理論を語る」への書評第2弾です。
明治までの日本には職能としての「建築家」は存在しなかったといわれる。
大阪城都市は権力者・秀吉が建て、江戸城都市は家康が建設したとされる。
ただ、断片的にはやはり名が残ったりもしているだろうと思う。
戦国から江戸期に掛けての「築城家」という存在、たとえば藤堂高虎などは
歴史的にも、建築史にその名を残しているともいえる。
また江戸の街割りでの大名庭園の量産、その設計者としての
小堀遠州など総合的「建築プロデューサー」は存在したと思う。
わたし個人としては、沖縄の中村家住宅の始祖・賀氏さんに興味を持っている。
武将・築城家としてその名を沖縄の歴史にとどめる護佐丸(中城城主)が
読谷から城を移したとき、共にこの地にその「師匠」として移ったと伝えられる。
後世ペリーが横須賀に来る前に沖縄を訪れたときに、
その城壁組石やアーチ門などを見て、この民族は容易ならない建築技術を持っていると
日本社会に対して強い警戒心を持った記録もあるそうです。
かれは中城の築城家であって、その建てた住宅が沖縄を代表する
古建築であるというそういった経緯も見れば、近世的個人職能としての
建築家と呼称して差し支えないのではと思っています。
ただ基本的には都市や中核的建築は権力者自身がその設計を担うものであり、
一個人がそういった建築に名を残すことはない社会が日本では続いた。

一方欧米では都市や社会の「建築」に責任を持つ建築家という社会文化があった。
一種の芸術家であり、都市や建築についてのプロデューサー職能。
明治以降、そういうことから東京大学に「建築学科」が創設されて、
日本でもそういう職能を根付かせようとしてきたのだと思う。
その流れがあって、ようやく戦後の大量建設時代になって、
主に「公共建築」量産時代があり、そこで丹下健三さんなどが活躍された。
かれはモダニズム全盛時代に、戦争での荒廃からの社会復元、
新規再生のような時代に国家アーキテクトとして活躍した。
東京大学で建築を教え、多くの教え子を世に輩出した。
その後、公共から民間主導へと大型建築発注主体が変化して、
欧米的アーキテクトともまた違うニッポン的「建築家」像が一定存在した。
たぶんこの変わり目に於いて、社会全体への目配り、思想家としての
「建築家」から、より商業主義的な職能へと変化したのではないかと思われる。
国家や社会全体を見渡しての思想家から、資本の論理の先導者としての建築者へと
機能が大きく変更されたのではないかと思うのです。

東大工学部には伝統的に次代を担う人材への問答試験があると聞きます。
それは、東大工学部は国家を建設するという使命感の強制だと。
この東大建築学専攻による「もがく建築家 理論を語る」を読んで、
とくに磯崎新さんの世代において、東大安田講堂事件など
70年安保を契機として、吹き荒れた学生の反乱を経験して、
大きな断絶が存在したのではないかと気付かされました。
いくつかの事実がそこには記載されていましたが、
丹下健三さんへの弟子の建築家たちの「乗り越え」過程に
こういった消息が見え隠れしている気がしてなりません。
それがちょうど、国家プロジェクトとしての1964年東京オリンピックと同時進行した。
それが終わって以降、資本の論理による大規模建築が日本建築の主流になる。
読み進めていくうち、良くも悪くも、こういった経緯が容易に推量された。
この出版プロジェクトが、2020年国立競技場設計者に選任された
隈研吾さんが大きく関わって推進されていることに、符号も見る思いです。
その隈研吾は、建築家概念は「すでに賞味期限が過ぎている」と結論している。
ニッポン国としてはこういった流れの理解でいいと思うのですが、
しかしこの本ではまったく触れられていないけれど、
この間、一地方である北海道ではまったく違う社会的要請があり、
そのなかで性能進化を果たした地域建築人の動きも同時進行したと思っています。
こうした事柄について、次号のこの本「技術」篇で触れられるのかどうか、
注視していたいと思っている次第です。でも、取材対象は安藤忠雄さんか・・・。

<写真は報道発表資料、WEBから転載しました。>